ゆかりの史跡
Historic spot of the connection
金山城(太田金山城/新田金山城)
かなやまじょう
金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山に築かれた山城。別名「太田金山城」「新田金山城」。文明元年(1469)に新田(岩松)家純により築城。その後、岩松氏の重臣であった由良氏(横瀬氏)が下克上により城主となり全盛期を築く。天正12年(1584)城主国繁を人質に取る北条氏に対し、齢71歳ながらも大砲などで応戦し、見事撃退するに至った由良家の本拠。
館林城
たてばやしじょう
妙印尼輝子の父赤井照光によって築かれた群馬県館林市にある城。城沼のほとりに築城されており、照光が子ぎつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたという伝説「狐の尾曳伝説」も残っている城である。永禄5年2月9日上杉勢(由良家も参戦)に攻められ赤井家は追放されるが、その後息子の長尾顕長が城主になるなど、妙印尼輝子にとって縁深い城である。江戸時代に入ってからも、徳川綱吉を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
小泉城(城之内公園/大泉町)
こいずみじょう(しろのうちこうえん)
群馬県邑楽郡大泉町にある城。築城は、延徳元年(1489年)富岡主税介直光と伝えられている。戦国時代、富岡一族は古河公方や上杉謙信、北条氏などの勢力下で活躍、由良家とも何度か戦っている。しかし、天正18年(1590年)豊臣秀吉の関東攻めの際、北条家に付き落城し、廃城になった。現在では城跡(内堀の全部と外堀の一部および土塁)のみが残っており、公園(城之内公園)として整備されている。
新田神社(太田市)
にったじんじゃ
太田金山城山頂付近に鎮座する新田義貞公を祀る新田氏ゆかりの神社。明治六年の創建。境内には金山城主系図の看板があり妙印尼輝子の夫 由良成繁公も名を連ねている。
さざえ堂(曹源寺 太田市)
さざえどう(そうげんじ)
祥寿山曹源寺は曹洞宗の寺院で、寺伝によると新田氏の祖義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基したと伝えられている。境内には薗田氏一門により造立されたかと考えられる名号角塔婆や、中興開基と伝えられる横瀬(由良)氏の五輪塔など関係資料も多い。本堂はさざえ堂と呼ばれる堂内が回廊となる特種な構造をしており、現在、埼玉県本庄市の成身院と福島県会津若松市の旧正宗寺と合わせて、日本三大さざえ堂と言われていますが、曹源寺のさざえ堂が最大。
金龍寺(太田市)
きんりゅうじ
金龍寺は、金山城の重臣だった横瀬(由良)氏が、文明年間(1469~1386)に先祖の英雄である新田義貞を追善供養するため開基したと言われています。その後横瀬(由良)家の菩提寺として戦国時代に興隆しました。しかし天正18年(1590)金山城の廃城に伴ない、由良氏は常陸牛久(現 龍ヶ崎市)に移封され、金龍寺も寺僧とともに同地へ移りました。現在の金龍寺は慶長年間(1596~1615)に、この地を領した館林城主榊原氏により再興されたものです。境内には由良氏五輪塔があり、横瀬国繁から由良成繁に至る歴代の金山城主とその一族を弔うために造立されたものと考えられています。
金龍寺(龍ケ崎市)
きんりゅうじ
茨城県龍ケ崎市にある曹洞宗の寺院。元は群馬県太田市金山にあり、天正18年由良家の転封と共に同地に移転してきた。境内には四基並んだ五輪塔があり、新田義貞、横瀬貞氏、由良国繁、由良忠繁が祀られている。江戸時代には沢山の末寺を抱えて隆盛を誇ったようだ。また「藁干し観音のお話」や「牛になった小坊主」などの伝説も有り、今も地元の人々に広く親しまれている。
鳳仙寺(桐生市)
ほうせんじ
鳳仙寺(ほうせんじ) は、群馬県桐生市梅田町にある曹洞宗の寺院。天正元年(1573年)桐生柄杓山城を攻略し桐生氏を滅ぼした由良成繁が、翌年桐生に入り自らの菩提寺として建立した。由良成繁公を祀る五輪塔は境内の高台にあり、桐生市街や太田市街、金山を向いている。その横に近年になって作られたであろう妙印尼輝子を祀る小さな五輪塔がそっと佇んでいる。
得月院(牛久市)
とくげついん
茨城県牛久市にある得月院は、文禄三年(1594年)牛久城に移り住んだ妙印尼輝子が開基した寺院。寺院の様々なところで家紋(大中黒)を目にすることができ、妙印尼輝子が命を賭して守り通した由良家(新田氏)の家名への思いを今に伝えている。本堂裏の墓地中心部には妙印尼輝子(法名 得月院殿月海妙院大姉)の墓石五輪塔があり、市の指定文化財となっている。現在では市指定文化財(天然記念物)で推定樹齢450年から500年の榧(カヤ)の木と、地元出身で近代日本画壇の巨匠 小川芋銭の菩提寺としても知られている。
反町薬師(反町館跡/妙光院照明寺)
反町薬師は、群馬県太田市新田反町町にある真言宗の寺院。敷地は新田義貞の居館跡といわれる場所で「反町館跡」とも呼ばれ、「新田荘遺跡」のうちの1箇所として国の史跡に指定されている。館→館城→寺院と変貌を遂げており、妙印尼輝子の時代には金山城を守る支城として重要な戦略拠点となっていたが、天正12年(1584年)北条氏の金山城攻めの時には、北条氏邦の本陣にもなった。
光恩寺(千代田町)
こうおんじ
赤岩山光恩寺は群馬県邑楽郡千代田町にある真言宗の寺院。開山は古く、寺伝によると雄略天皇が穴穂宮のために、勅して全国に建立せられた九ヶ寺の一つとされ、また推古天皇33年に高麗王より大和朝廷に貢された恵潅僧正が来往し、光恩寺を開いたと言われている。妙印尼輝子の時代には、佐貫氏の末裔である赤井家の菩提寺となる。境内には館林城を築いた妙印尼輝子の父ともいわれる赤井照光の墓がある。
尾曳稲荷神社(館林市)
おびきいなりじんじゃ
群馬県館林市にある神社。尾曳稲荷神社には、館林城築城にあたり妙印尼輝子の父 赤井照光と子狐の逸話が残っている。赤井照光が子供たちに捕らえられた子狐を救ったところ、その夜老狐があらわれ、子狐が助けられた礼を述べ、館林が要害堅固の地と説き移転を奨め、尾を曳いて城郭の縄張り(設計図)を先導して夜が明けたという。
多々良沼(邑楽町/館林市)
たたらぬま
多々良沼は群馬県館林市と邑楽町にまたがる沼。その昔砂鉄が採れ、この地で製鉄と刀鍛冶が行われていたという。妙印尼輝子の時代、由良成繁、国繁、館林城主 長尾顕長の命を受けた農政家 大谷休泊が、館林地区の農業(米)生産力の向上のため、金山から赤松を植林し上州名物空っ風を防ぎ、また灌漑(現:休泊堀)を整備したと言われている。
足利学校
あしかががっこう
足利学校は栃木県足利市にあり、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されている。足利学校の創建年代については諸説あるが、妙印尼輝子の時代には長尾顕長と北条氏政によって保護され、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルにも「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー」と称されている。当時は学問以外にも刀剣の製造も行なわれており、安土桃山時代の名工・堀川(信濃守)国広も足利学校にて、長尾顕長の名により鍛刀している。
鶴岡八幡宮(鎌倉市)
つるがおかはちまんぐう
神奈川県鎌倉市にある神社。鎌倉初代将軍・源頼朝ゆかりの神社として繁栄。その後、鎌倉幕府衰退と共に焼き討ちなどに合い衰退していたが、北条氏綱により天文13年(1544年)に再建。この事業には、当時相模国を中心に領国を拡大していた北条氏の、東国武家政権の後継者を主張する意味があった。永禄4年(1561年)、関東管領職を上杉憲政から引き継いでいた上杉謙信は、この地で拝賀式を行なう。拝賀式には、関東の多くの国衆(北条方以外)が参加しており、由良成繁らも新田金山衆として参加している。この関東管領の拝賀式では、武蔵国忍城・成田長泰(甲斐姫祖父)が、就任式で下馬をしなかったことで上杉謙信の怒りを買い、扇で烏帽子を打ち落とされるという恥辱を受けたため、兵を率いて帰国してしまったという話(相州兵乱記)も残っている。関東の国衆をまとめ上げる事が、如何に一筋縄ではいかなかったことが伺える。
松井田城(安中市松井田町)
まついだじょう
群馬県安中市松井田町高梨子にあった山城。上野国と信濃国の国境に位置し、中山道の要所である碓氷峠のおさえとされた城。東西に延びる標高130mほどの尾根沿いにつくられていた。1560年ごろ、安中忠政により築城されたとされているが、それ以前から築城されていたという。城主は安中氏、武田氏(小山田虎満、小山田昌成父子)、織田氏(滝川一益)と変わり、天正18年(1590)妙印尼輝子が豊臣軍に参陣すべく松井田城に向かったときは、北条氏の大道寺政繁が城主(城代)だった。前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを中心とする豊臣軍が松井田城を攻撃したが、数千の兵が籠る松井田城は3月20日の総攻撃でも落城せず、持久戦が行われることになった。この結果、約1ヵ月後の4月22日に大道寺政繁は降伏し、松井田城は豊臣側に明け渡され、廃城となった。現在、城跡は山林となっているが整備はされていない。本丸の奥に虚空蔵堂がある。大道寺政繁の居館跡には、政繁の菩提寺である補陀寺がある。
忍城(行田市)
おしじょう
埼玉県行田市にあった日本の城。別名は忍の浮き城。太田金山城と共に関東七名城の一つ。文明10年(1478年)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子が、この地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。戦国時代には、金山城城主である由良成繁・妙印尼輝子の娘が成田氏長に嫁いでおり、そこで甲斐姫が生まれる。しかしながら天正元年(1573年)、成田家と由良家の関係悪化に伴い氏長と娘は離別を余儀なくされ、甲斐姫の母である由良家の娘は涙を流して2歳の甲斐姫と別れ、忍城を後にしたと伝わる。行田市内にはその伝説を今に伝える、縁切橋跡・涙橋跡の石碑が建てられている。忍城は湿地帯を利用した平城。元々沼地だったところに島が点在する地形で、沼を埋め立てず独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築かれていた。当初は櫓を立てずに本丸は空き地とし、二の丸に屋敷を作ってそこを住まいとしていた。そのため、攻めにくく守りやすい城であったとされる。豊臣秀吉の小田原征伐時には、この特異な地形を活かし籠城戦を行い、唯一、秀吉が落せなかった城として知られ、近年映画(のぼうの城)や小説にもなっている。現在は本丸跡に行田市郷土博物館が開館、御三階櫓なども博物館の一部として復元されている。
鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)
はちがたじょう
埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡。築城は関東管領・山内上杉氏の家臣である長尾景春と言われている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張される。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれ、天然の要害をなしており、後北条氏の北関東支配の拠点となった。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、妙印尼輝子も参陣した前田利家・上杉景勝らの北国軍に包囲され、攻防戦を展開。1ヶ月余りにおよぶ籠城戦の後に、北条氏邦は城兵の助命を条件に開城した。遺構の残存状況がきわめて良好なことから「鉢形城跡」として、国の史跡に指定されている。現在は鉢形城公園として整備され、同公園内には鉢形城歴史館も建てられている。
東慶寺(鎌倉市)
とうけいじ
松岡山東慶寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内(北鎌倉)にある臨済宗円覚寺派の寺院。開基は北条貞時、開山は覚山尼と言われている。1616年(元和2年)大坂城落城の翌年に、豊臣秀頼の娘・天秀尼が、千姫の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となった。天秀尼は1645年(正保2年)に37歳の若さで死去したが、その側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔がある。この宝篋印塔には「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれており、天秀尼に縁深い人物のものと思われるが、寺にはこの人物に関する文献や伝承は一切ない。この人物に関しては、諸説あるが「のぼうの姫 ― 秀吉の妻となった甲斐姫の実像」を著した三池純正は、この墓が妙印尼輝子の孫娘にあたる、成田家・甲斐姫のものであるという説を唱えている。また江戸時代には、群馬県太田市の満徳寺と共に、幕府寺社奉行も承認する縁切寺となった。
桐生城(柄杓山城)
きりゅうじょう(ひしゃくやまじょう)
※準備中
足利城
あしかがじょう
※準備中
高津戸城(みどり市大間々町高津戸)
たかつどじょう
※準備中
八王子城(八王子市)
はちおうじじょう
※準備中
古河城(古河市)
こがじょう
※準備中
華蔵寺(深谷市)
けぞうじ
※準備中