妙印尼輝子(みょういんにてるこ)
上野国金山城主・由良国繋の母親。俗名は輝子(てるこ)。天正12年、国繋を捕えて当主不在の金山城を攻める北条氏に対抗し、家臣をまとめて71歳にして籠城戦を指揮した。6年後の小田原征伐では、国繁が北条方の小田原城に篭城する一方、嫡孫を後見して豊臣方へ参陣。由良家は、戦後その功により秀吉から常陸牛久5400石を与えられ、家名存続に大役を果たした。81歳没。茨城県牛久市の得月院に葬られている。法名得月院殿月海妙印大姉。
上野国金山城主・由良国繋の母親。俗名は輝子(てるこ)。天正12年、国繋を捕えて当主不在の金山城を攻める北条氏に対抗し、家臣をまとめて71歳にして籠城戦を指揮した。6年後の小田原征伐では、国繁が北条方の小田原城に篭城する一方、嫡孫を後見して豊臣方へ参陣。由良家は、戦後その功により秀吉から常陸牛久5400石を与えられ、家名存続に大役を果たした。81歳没。茨城県牛久市の得月院に葬られている。法名得月院殿月海妙印大姉。
金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山に築かれた山城。別名「太田金山城」「新田金山城」。文明元年(1469)に岩松家純により築城。その後、岩松氏の重臣であった由良氏(横瀬氏)が下克上により城主となり全盛を築く。戦国時代、上杉氏や北条氏との従属関係を保ちながら生き残りを図り、その間10数回もの攻撃を受けながらも、一度も城の中枢にまで攻め込まれずその堅固さを誇った。
金山城を築城した岩松家の重臣だった横瀬氏は、下克上により第7代当主 横瀬泰繁時代に金山城城主となる。第8代当主 成繁の代に鎌倉時代に新田氏宗家が代々相伝していた由良郷の地名より名字をとり、由良成繁と名乗る。成繁は館林城主 赤井照光の娘(妙印尼)輝子と婚姻を結ぶ。由良家は、その息子達 由良国繁(金山城城主)、長尾顕長(館林城城主 足利城城主)、(成繁は桐生城に隠居)の時代に、上州群馬の東毛地区を中心に最大版図を誇った。
新田一つ引として有名な大中黒の家紋。これは妙印尼輝子が開基として知られる牛久市得月院にも残る家紋である。由良家では御旗にこの大中黒、陣幕には菊・桐・丸に三つ葉葵を用いており、これは新田義貞の時代から用いられていると記録に残っている。前田利家からの書状などを見ても、宛名に「新田御老母」と書かれており、当時から由良家=新田の守護者として、並みいる戦国武将達からも一目置かれていた事が分かる。妙印尼輝子の生涯は単に由良家や新田の家名を守る戦いを超え、戦国時代の終焉を感じながらも、東国武者としての熱い思いを、子々孫々にまで伝え残そうとした、誇り高き戦いでもあったように思える。
累計発行部数50万部超えのヒット作「お前はまだグンマを知らない」(新潮社)で有名な漫画家・井田ヒロトさんに、妙印尼輝子の若かりしころをイメージし、キャラクターデザインをしていただきました。陣羽織やのぼり旗には由良家の家紋である大中黒、衣装には太田市の木でもある金山の松、生まれ故郷・館林市のツツジをあしらい、力強さの中にも女性らしい美しさも表現しています。後年の活躍をイメージさせる素敵な作品になっています。
妙印尼輝子に関する生涯を中心に、戦国時代の群馬、栃木、埼玉周辺の歴史や当時の状況を紹介しています。
太田金山城を中心に、周辺の城跡、寺院など、関連する様々な史跡を紹介しています。妙印尼輝子の戦国時代の活躍を感じながら、その足跡をたどってみてはいかがでしょうか。
由良氏の家系図や当時の上州の状況など、妙印尼輝子をさらに詳しく理解するための、様々な資料をご用意しています。
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