歴史
History of MYOUINNITERUKO
歴史
館林城主 赤井照光の娘
輝子が嫁いだのは、上州金山城に拠る横瀬家の嫡男、横瀬成繁(1506-1578)である。横瀬家も、新田氏の流れをくむ岩松家の家宰格に過ぎなかったが、その実力で実権を掌握していた。
上州金山城は、源義家の孫にあたる新田義重が平安末期に新田地方(太田市を含む周辺地域)を領有した後に構築されたものとみられ、現在の金山城遺構の記録は応仁3年(1469)まで遡ることができる。文明10年(1479)には扇谷上杉家の家宰太田道灌が金山城を訪れて3日間滞在したとも伝わり、文明15年(1484)の大改築を経て、北関東屈指の堅城として名を馳せていた。
戦国時代の足音迫る 混沌とした時代のひと時の幸せ
輝子が嫁いだ時期は不明であるが、当時の関東は、古河公方足利方及び関東管領上杉方の対立に加え、伊豆相模の北条氏が勃興しつつあり混沌とした状況にあった。横瀬家の主家である岩松家も、かつては関東管領上杉方であったが、岩松家純の代に古河公方足利方に転じている。輝子は、実家の赤井家と同じ古河公方陣営にあった横瀬家へ嫁いだことになる。そして、天文20年(1550)に嫡男国繁を、弘治元年(1555)に二男渡瀬繁詮を、弘治2年(1556)に三男長尾顕長を生んでいる。
国繁の出生した年、北条家との川越夜戦以降に勢力を失っていた関東管領上杉憲政が越後に追われている。新たな時代へのうねりの中で、三人の子をもった輝子は、ひと時の幸福の中にいたのかもしれない。
軍神上杉謙信の関東遠征
しかし、永禄3年(1560)に上杉憲政を擁した長尾景虎(以下「上杉謙信」とする)が上野に進攻すると様相が一変する。横瀬家はこれに応じて上杉方に帰参したが(上杉方の「関東幕注文」に横瀬雅楽助(成繁)の名がある)赤井家はこれに従わず、横瀬家は上杉方の一員として館林城を包囲。戦国の習いとはいえ、赤井氏は輝子の嫁ぎ先の手によって館林城を追われることとなる。
上杉謙信の数度に渡る関東遠征は、当初こそ小田原城に迫る勢いで関東の勢力図を大きく塗り替えていったものの、北条家の同盟国である武田家の信濃における動きを受け、進攻と退却を繰り返すこととなる。その後、北条氏は勢力を盛り返し、上杉方が据えた古河公方足利藤氏を放逐。再度、北条出身の母を持つ足利義氏を古河公方に復権させると、横瀬家も上杉方から古河公方足利方へと再び転身している。なお、この間に横瀬家は由良姓に改めている。
東国武者としての誇りを胸に、戦国大名への道を歩む由良成繁
永禄9年(1566)、金山城が上杉謙信から攻撃を受けるも、これを退けている。永禄11年(1568)、武田信玄の駿河今川家侵攻を理由に北条家と武田家が断交。北条家は上杉家との和睦を模索し、由良成繁がこの仲介に奔走したと伝わる。翌年、北条家と上杉家の越相同盟が成立する。しかし、わずか2年後の元亀2年(1571)に北条氏康が没すると、後継の北条氏政は越相同盟を解消して武田信玄との同盟を回復した。
越相同盟の解消により、関東において再び上杉方との紛争が再開する。元亀3年(1572)2月、由良成繁は上杉方の膳城を占領し、これに対する上杉方も3月に金山城の属城である丸山砦を攻めている。また、このころ渡良瀬川の水利をめぐり由良氏と桐生氏の紛争が激化し、成繁は元亀4年(1573)3月12日に桐生城を占領している。由良家は、これに先立つ永禄12年(1569)7月に三男顕長を足利長尾氏に養子入りさせて足利城、館林城の城主としており、このころ、両毛地域に最大版図を有する最盛期を迎えることとなる。
上杉謙信、由良成繁の死 めまぐるしく変わる関東の支配勢力図
天正2年(1574)3月、上杉謙信は金山城の属城である女淵・膳・山上・黒川谷の諸城を席巻し、藤阿久に陣を張って金山城を攻めたが、転進したのち帰国。同年7月、上杉謙信は再度関東入りをして9月に桐生谷山の皿窪城を落とし、金山城にも向かったが、関宿城に転進して古河を通って帰国した。
天正6年(1578)3月、上杉謙信が没する。同年6月29日、上杉謙信との戦いを繰り広げた由良成繁も没した。由良家は、成繁と輝子の嫡男である国繁が家督を承継し、輝子は出家して妙印尼と称した。
上杉謙信の死により越後では御館の乱が勃発。上杉景勝と結んだ武田勝頼が東上州まで進出するが、その武田家も織田家によって天正10年(1582)に滅亡する。これにより上州の国人は厩橋城に入った織田家の滝川一益の支配化に入ったが、その矢先におきた「本能寺の変」を受けて滝川一益は厩橋城を放棄。その後は、北条氏の北関東侵攻が本格化した。
城主不在 齢71歳での金山城の籠城戦を指揮
天正12(1584)年元日、長尾顕長が唐沢山城の佐野宗綱を討ち取る。しかし、その凱歌もつかの間、国繁と長尾顕長は、北条氏直の計により小田原城に抑留され、金山城、館林城の引き渡しを迫られることとなる。同年2月、当主不在の金山城、館林城に攻めかかる北条勢に対し、輝子は、金山城の一族郎党3000の兵をまとめて籠城して抵抗。
館林城も抵抗を続けた。北条勢は由良勢の必死の防戦に攻めあぐねるものの、最後は和睦。北条氏直は両名を帰城させて兵を引き、国繁は金山城を明け渡して妙印尼と共に桐生城に移り、長尾顕長は館林城を明け渡している。
家を二分してまで守った由良家の家名 妙印尼輝子命を賭した最後の戦い
天正15年(1587)、北条氏は明け渡しを受けた金山城の城主に、家臣清水正次を命じている。同年12月3日、豊臣秀吉は、のちに小田原征伐のきっかけとなる「関東・奥羽惣無事令」を出す。
天正18年(1590)1月6日、豊臣秀吉の動きに対して、北条氏は正月15日までに小田原に参陣するよう指示する。国繁・長尾顕長兄弟はこの指示に従い、小田原城篭城に加わる。一方、妙印尼は、北条方として籠城する息子達に反し、77歳の高齢の身にありながら嫡孫の由良貞繁を擁して豊臣方に参陣。松井田城を攻略中の前田利家麾下に加わっている。
天正18年(1590)5月2日、前田利家らが金山城を接収するも、一家を二つに割って豊臣方に味方した妙印尼の行動が功を奏し、天正18年(1590)6月7日、前田利家は、妙印尼に対し、由良・長尾の身上を豊臣秀吉にとりなすことを約束している。
戦国の世の終焉 由良家、妙印尼輝子のその後
天正18年(1590)7月5日、北条氏直、小田原城を出て豊臣秀吉に降伏。
天正18年(1590)8月1日、金山城は廃城となり由良氏は領地を失うも、豊臣秀吉から妙印尼に対して常陸国牛久5435石が与えられる。妙印尼はこれを国繁に譲り、由良家はその家名が存続することとなった。
文禄3年(1594)11月6日、妙印尼、移封先の牛久にて没する(81歳)。戦乱の世を生き抜いた輝子は、最後の地牛久に自ら開基した得月院に、今も供養されている。
※本サイト内での歴史認識は妙印尼輝子研究会の調査および、妙印尼輝子(著:春野保春)の内容を参考にしており、当時の事実を保証するものではございません。
※本サイト内の一部の画像はウィキメディア・コモンズにて利用させていただいております。