関連人物

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由良成繁(ゆらなりしげ)【1506年〜1578年8月3日】

妙印尼輝子の夫。幼名を新六郎。信濃守。由良氏はもと横瀬姓で岩松氏の重臣。太田金山城を築城した岩松家純は文明9年(1477)神水三ヶ条事を定めて、横瀬国繁(成繁の4代以前の当主)の地位をみとめた。明応4年(1495)岩松尚純と横瀬業繁(成繁の曽祖父)が争い横瀬氏の勝利となり横瀬氏は金山城の実権をにぎることになった。下剋上の結果、成繁の代には、上州新田郡を中心にした「新田領」を形成していた。永禄3年(1560)上杉謙信の関東出兵には「関東幕注文」にもその名が見え、上杉方に属していた。『長楽寺永禄日記』の中にも上杉方の味方として、北条氏と対立している様子が伺える。元亀2年(1571)桐生親綱と争い、天正元年(1573)桐生氏を滅ぼしている。このころより上杉氏と対立し、北条氏についている。北条と上杉の二大勢力に挟まれながらも新田領を固め、上州の金山城を中心に上野の在地領主の中心となった典型的な戦国大名である。天文6年(1578)没、法名は鳳仙寺殿中山宗得大居士。墓は群馬県桐生市鳳仙寺にある。


由良国繁(ゆらくにしげ)【1550年〜1611年2月15日】

太田金山城主・由良成繁、妙印尼輝子の嫡男。館林城主長尾顯長の兄。新六郎。信濃守。式部大輔と称した。父成繁の後をつぎ、金山城主となる。天正元年(1573)桐生城主桐生親綱を破り、天正7年阿久沢・松島を攻めて降伏させ上州(現在の両毛地域一帯)を統合した。天正12年北条氏直は厩橋城主北条高広を攻略した祝儀に参着した由良国繁・長尾顕長兄弟に金山・館林両城の明け渡しを強要し小田原に幽閉した。留守を守っていた妙印尼輝子は、北条氏照・氏邦らと戦い金山城にてこれを防ぐが開城。その後桐生城に移った。天正18年豊臣秀吉の小田原攻めの際北条氏に仕える。北条氏の滅亡に際し、家を2分してまで戦った妙印尼輝子の功によって家名を存続し、牛久五千石を与えられ豊臣秀吉に仕え、死後は徳川家に仕えた。慶長16年(1611)2月15日没。法名瑞源寺殿奇山良太と号す。


長尾顕長(ながおあきなが)【1556年〜1621年3月30日】

太田金山城主・由良成繁、妙印尼輝子の子、国繁の弟。幼名熊寿丸、のち新五郎、但馬守と称した。足利城主・長尾景長(常長)の養子となり、景長が没すると足利・館林両城主となった。天正11年(1583)正月元旦佐野唐沢山城主佐野宗綱を須花坂に討ち取った。天正12年兄由良国繁とともに小田原に幽閉され、その結果館林城を北条氏に渡し足利城に退いた。天正18年豊臣秀吉の小田原攻めの際、兄国繁とともに小田原城内において秀吉勢と対抗、北条氏滅亡によって城地を没収され、のち兄国繁の領内牛久に移り、元和7年(1621)3月30日没。法名徳聖院関英宗鉄、長尾氏歴代の墓所長林寺(栃木県足利市)に葬る。


渡瀬繁詮(わたらせしげあき)【1555年〜1595年】

太田金山城主・由良成繁、妙印尼輝子の子。小次郎。国繁の弟。顕長の兄。正室は有馬則頼の娘。天正元年(1573)に梅松山渭雲寺(桐生市)を開基。幼少期太田・桐生で過ごした後、天正13年(1585)羽柴秀吉の家臣となった。紀州征伐(千石堀城の戦い)などで活躍した後、秀吉の命で豊臣秀次の家老となった。1590年に秀次が尾張伊勢に封じられると、他の秀次付の家老らと共に東海道諸国に封じられ、遠江横須賀城主となった。文禄4年(1595年)の秀次事件に際しては秀次の弁明を行うが、連座して改易されたうえ切腹を命じられた。


由良貞繁(ゆらさだしげ)【1574年〜1621年】

由良成繁、妙印尼輝子の孫。国繁の嫡男。天正18年当主である国繁不在の金山城において、祖母である妙印尼輝子と共に、豊臣側に付き前田利家と共に松井田城攻めに加わった。その功績が認められ、妙印尼輝子、国繁と共に牛久に移り徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いの際は永井直勝の部隊に属して出陣。慶長19年(1614年)大坂の陣では土井利勝に従って従軍したが、慶長20年(1615年)夏の陣で鴫野口の戦いで負傷したという。 元和7年(1621年)死去。


上杉謙信(うえすぎけんしん)【1530年2月18日〜1578年4月19日】

越後の国・守護代である長尾氏出身の戦国大名。幼名虎千代。初名長尾景虎。永禄4年(1561年)関東管領上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲り受け関東管領となった。それ以降関東の覇権を目論む北条氏との争いのため、何度も関東まで出兵する事になった。由良成繁は当初関東管領である上杉謙信に従っている(永禄3年『関東幕注文』に横瀬雅楽助成繁は「新田衆」として記されている。)。由良成繁は上杉謙信と共に、北条側に付いた妙印尼輝子の出身である館林城赤井家も滅ぼしている。しかし次第に北条氏の勢力も盛り返し、さらに西上野方面から甲斐の武田信玄が侵攻を繰り返し、松井田・倉賀野城が攻略され、上杉謙信を取り巻く情勢は次第に苦しいものになっていった。その後由良成繁も北条氏に従うようになった。上杉謙信は北条側になった由良成繁を擁する太田金山城にも数度攻め入っているが、成繁はこれを全て防いでいる。天正元年宿敵であった武田信玄が亡くなり、天正5年手取川の戦いで織田軍を破った上杉謙信は、名実共に天下統一に一番近い存在であったが、天正5年に急死。死因は脳溢血と言われている。


上杉景勝(うえすぎかげかつ)【1556年1月8日〜1623年4月19日】

上杉謙信の甥。豊臣政権の五大老の一人。謙信亡き後の上杉家当主。豊臣政権時代五大老の一人として活躍。天正18年(1590)の小田原征伐に参加、前田利家や真田昌幸らとともに、上野・武蔵の北条方諸城を攻略した。秀吉亡き後、徳川家康と対立するも関ヶ原の東軍勝利により、米沢に移封。移封後は米沢藩主となり、上杉家の幕末までの繁栄の基礎を築いた。


前田利家(まえだとしいえ)【1538年〜1599年4月27日】

豊臣政権の五大老の一人。通称:又左衞門。はじめ織田信長に仕えていたが、信長の死後同僚であった豊臣秀吉の臣下となる。豊臣秀吉とは臣下を越えた関係があり、天下人となった秀吉に諌言できる数少ない人物でもあった。天正18年(1590)の小田原征伐に参加、上杉景勝や真田昌幸らと共に、上野・武蔵の北条方諸城を攻略。この時由良家・妙院尼輝子の豊臣方への参戦を認め、由良家存続に力を貸している。現存する「前田利家新田老母宛書状」では、豊臣秀吉に対して尽力する旨が書き記されている。慶長4年没。加賀藩主前田氏の祖。


豊臣秀吉(とよとみひでよし)【1537年3月17日〜1598年9月18日】

天正後期、織田信長亡き後の天下人。尾張国愛知郡中村郷の農民の家の生まれ。戦国時代三英傑。由良家との関係は、天正13年(1585)に由良成繁、妙印尼輝子の子・渡瀬繁詮が、豊臣秀吉・秀次に仕えている。一般に、戦国時代の終焉は、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原征伐と言われている。小田原征伐時、北条方として戦った息子由良国繁、長尾顕長に対し、妙印尼輝子は孫の由良貞繁を引き連れ、前田利家率いる豊臣方として参戦し戦果をあげ、由良家の存亡の危機を救った。天正18年8月1日付「豊臣秀吉朱印状」にて、北条側についた由良国繁、長尾顕長の赦免と、由良家の存続、常陸国牛久への国替を命じている。


織田信長(おだのぶなが)【1534年6月23日〜1582年6月21日】

戦国時代、天正前期の天下人。尾張国古渡城主・織田信秀の嫡男。父亡き後の尾張を統一し、桶狭間の戦いにて今川義元を討ち取る。婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大していった。長篠の戦いで当時最強と呼ばれる武田軍を破る。この戦いは戦国時代初の火縄銃を主力に用いた殲滅戦であり、その後の戦のかたちを一変させる重要な戦いとなった。しかし天正10年(1582)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。由良家とは直接の接点は無かったものの、由良国繁の命で織田信長に綿百斤を献上し、喜んだ織田信長の斡旋により、国繁は従四位信濃守に叙任されたという記録がある。武田信玄、上杉謙信亡き後、滝川一益に上野を統べるべく「関東守護」を命じており、その勢力は関東まで及び始めていた。


滝川一益(たきがわかずます)【1525年〜1586年10月21日】

織田信長の家臣。織田四天王の一人。鉄砲の名手とも言われていた。天正10年(1582年)信長の武田家滅亡のための甲州征伐の後、上野国を中心とした「関東守護」に命じられ、上野箕輪城、次に厩橋城(前橋市)に入った。しかし同年6月2日本能寺の変が起こる。信長急死に乗じた北条氏の攻撃により、自身の本拠である伊勢長島に退去する事となった。その後の上野国の国衆は、豊臣秀吉の北条征伐まで北条氏に支配される事となった。


上杉憲政(うえすぎのりまさ)【1523年〜1579年4月13日】

室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主。天文15(1546)年、関東に勢力を伸ばしつつあった北条氏康に河越城の戦いで大敗を喫し、3000人余の将兵を失って居城である上野平井城(群馬県藤岡市)に逃れた。その平井城も天文21年(1552年)に落城、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れていった。越後に入った憲政は景虎を養子とし、関東管領職を譲渡した。ここから上杉謙信VS北条氏康・氏政の関東の勢力争いが勃発し、由良家など関東の国衆達がこの勢力争いの渦に巻き込まれて行く事になった。


北条氏康(ほうじょううじやす)【1515年〜1571年10月21日】

相模の戦国大名。後北条氏第3代当主。北条氏綱の嫡男。関東から、関東管領職を歴任する山内上杉氏、扇谷上杉氏を追うなど外征に実績を残す。天文23年(1554年)武田信玄、今川義元との間に甲相駿三国同盟を結び、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。由良家は成繁時代、この氏康率いる北条氏と、謙信率いる上杉家の関東の主権争いに巻き込まれて行くこととなる。永禄12年(1569年)由良成繁は長尾景長と共に、北条氏政・上杉謙信の越相同盟の成立に仲介役として貢献している。


北条氏政(ほうじょううじまさ)【1538年〜1590年8月10日】

後北条氏の第4代当主。父は北条氏康。氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め関東を中心とした最大版図を築くが、豊臣秀吉による小田原征伐により数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹。戦国大名北条氏による関東支配を終結させる最期となった。


北条氏邦(ほうじょううじくに)【1541年〜1597年9月19日】

北条氏康の四男。氏政の弟。武勇・統治に優れ、北関東の最前線、武蔵、上野方面の軍事を任された。武田信玄との三増峠の戦いや、滝川一益を退けた神流川の戦いなど、各地を転戦しいくつもの武功を挙げ、北条氏の領土拡大に大きく貢献した。天正12年(1584)計略により城主不在となった太田金山城を攻めた。支城である反町城を落とすも、妙印尼輝子率いる金山城を落とす事は出来なかった。


桐生親綱(きりゅうちかつな)

唐沢山城(栃木県佐野市)城主・佐野昌綱の子。上州桐生地方を治めていた桐生助綱の養子となり、永禄13年(1570年)に養父・助綱が死去すると家督を継いだ。親綱は譜代の重臣、谷右京や大屋勘解由左衛門などを無視して、実家である佐野氏からの後見役の荒井主税之助、茂木右馬之丞、山越出羽守、津布久刑部らを重用、これまでの桐生氏の諸法度を廃止し、新法を行って暴政を領内に敷いたので、将士民心は離反した。桐生氏の行く末を危惧した執事(家老)の里見勝弘らが諫言するが、親綱に恨まれて自害させられた。このような桐生氏の乱れをみた隣国の由良成繁は、このまま桐生城の乱れを見過ごせば、他所から馬が入り桐生領が奪い取られる日は遠くないと、天正元年桐生城を攻略、親綱は佐野に逃走した。その後天正6年由良成繁の死去に乗じて、桐生城奪還を図ったが、応ずる者はなく旧領回復も夢と終わった。


藤生善久(ふじうよしひさ)【1547〜1590】

由良成繁の家臣。通称は紀伊守。渡瀬繁詮家老。柄杓山城(桐生城)代。上野道原(太田市)城代。老寄衆。知勇と文武に優れた武将と言われ、天正7年由良国繁の命により、上州東部に勢力を持つ松島入道古柏、阿久沢道伴等を攻め降伏させた。天正10年11月「藤生紀伊守言上之事」として十二ヶ条の教えを記し、由良国繁に文武の道を説いている。天正11年広沢大雄院(桐生市)を建立。天正12年当主不在の金山城にて妙印尼輝子と共に籠城戦に参戦。天正18年小田原籠城参戦。天正18年8月7日没。法名「高巌全玖」。

※藤生善久に関しては、地元群馬県桐生市に伝わる興味深い民話がある。正月に親友宅で飲み明かした藤生紀伊守(善久)は、帰宅途中自宅前の門松の陰から一本の矢が飛んで来て、暗殺されたという話である。残った家族は悲嘆に暮れ、不吉な門松は藤生家には不要と、その後代々門松は立ててはならぬという家訓を生み、それが平成の今でも子孫に伝わっている。


横瀬長繁(よこせながしげ)

由良成繁の弟。今泉城(太田市)城主。元亀3年(1572)桐生親綱を滅ぼした由良氏は、太田金山領に桐生領を併合した。由良成繁は、横瀬長繁の子・勘九郎成高を桐生城代とし、藤生紀伊守を添えて守らせた。勘九郎成高は、豊臣秀吉の小田原征伐め後、由良国繁に従って常陸牛久に移った。


渋川義勝(しぶかわよしかつ)

下野(しもつけ)(栃木県)足利郡小俣(おまた)城主。古河公方足利義氏に属したが、後に由良成繁の家臣となった。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めでは小田原城に籠城(ろうじょう)して戦った。落城後、所領没収のうえ身柄を秋元長朝(ながとも)にあずけられた。


鳥山浄仙(とりやまじょうせん)

鳥山入道浄仙。鳥山出雲入道。鳥山繁雄。横瀬繁雄。由良成繁の弟?。その呼名から仏門に帰依したと考えられるが、天正11年の金山籠城戦で宝泉城を守ったとの記録がある。


甲斐姫(かいひめ)

武蔵国忍城城主・成田氏長の長女。氏長の最初の正妻の子。氏長最初の正妻は、由良成繁、妙印尼輝子の娘。甲斐姫は妙印尼輝子の孫にあたる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、石田三成率いる豊臣軍が城に侵攻した際には、武勇を発揮して城を守りぬいた。「東国無双の美人」と評され、武芸や軍事に明るかったことから、「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」とも言われている。小田原征伐の後、甲斐姫は豊臣秀吉の側室となり、秀頼の教育係を務め、大阪城落城の際には、秀頼の子(天秀尼)を助けたとの説もある。


大谷休泊(おおやきゅうはく)【1521年〜1578年9月30日】

農政家。大谷休泊は初め新左衛門と称していたが後に休泊と改めた。元々平井城(群馬県藤岡市西平井)城主上杉憲政に仕えていたが、同氏没落後由良成繁に召し抱えられる。その後、由良成繁、足利・館林城主長尾景長・顕長父子の命により、上州東毛地区の農業発展のため尽力を尽くした。成繁の家臣荒山小佐衛門、熊倉善三郎と共に渡良瀬川の水を引き大輪沼(大輪沼新田)に達する「上休泊堀」、さらに多々良沼から斗合田(明和村)に通じる「下休泊堀」と称する用水路を完成。ついで舘野ヶ原(館林市西南部)の開墾、多々良沼周辺の防風林の植林を行なう。防風林には太田金山の赤松が使われた。



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