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由良氏略系図

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由良氏の領域

由良氏の領域


金山城全図

金山城全図

金山城の変遷

金山城時代 120年の軌跡

1.金山城の築城
※弘仁期(810~823)小野篁築城説、鎌倉末期の城塞説等があるが不祥。

「松陰私語」に、『文明元年(1469)2月25日、新田(岩松)家純が僧松陰を代官として地鎮の儀式を行い, 70余日断絶なく普請に走り回り、同8吉日に完成した。重臣の横瀬国繁らが由良原まで出迎え、家純は五十子陣から金山城に入城して祝賀の宴を行った。』(要旨)とある。


2.金山城の変遷
【1】 新田(岩松)氏時代文明元年(1469)~明応4年(1495)[25年間]

・家純ー明純(義絶・追放)ー尚純(佐野唐沢山城蟄居、後、岩松の館で連歌三昧の生活)

・文明9年(1479)正月18日に五十子陣を撤退し,同年7月23日、家純は金山城に一族、家臣、武士たちを集め、「今後は古河公方に与し(上杉から離れ)、子の明純を勘当し、定めた壁書きの条条は横瀬国繁を代官として執行させる」という「三カ条の誓約」を一味神水した。

・城主家純は、明応3年(1494)4月22日、享年86 歳で死去。後事を重臣の横瀬国繁、成繁に託す。

※城は実城部分のみで、住居は別の屋敷(呑嶺) であったか。


【2】戦国大名横瀬(由良)氏時代、明応4年(1495)~天正12年(1584)暮[90年間]

・「明応の乱」= “ 金山城のクーデター”
 明応4年(1495)4月、横瀬成繁が草津温泉に湯治に出掛けた隙に、岩松尚純らは「金山退治」「横瀬御退治」を掲げて手薄な金山城を責めた。結果は、古河公方の仲介で横瀬側の勝利となり、金山の実権は横瀬が掌握していった。

・伝説に「享禄の変」がある。岩松昌純と横瀬泰繁が争い、昌純が敗北、泰繁が「実城」に君臨したという。

・横瀬系図 国繁ー成繁ー景繁ー泰繁ー由良成繁ー由良国繁

・由良成繁、国繁時代は、越後上杉謙信、甲州武田信玄、小田原北条氏康らの「三つ巴」の戦乱期で、同盟を変転しながら桐生・足利・館林・新田領に戦国大名として君臨。

※永禄9年(1566)までに住・城一致となり、以後城域拡充、修築を重ね、根小屋造成か。


【3】小田原北条氏時代 天正13年(1585)~天正18年(1590)5月2日[6年間]

・天正11年10月、由良国繁、長尾顕長が小田原城へ軟禁され,翌12年8月~12月、小田原の北条氏照、氏直の軍勢が金山城を攻撃、 13年1月初めに攻略された。

・国繁は桐生城に引退、 13年11月、宇津木下総守(実城)、大井豊前守(金山根曲輪)高山遠江守(西ノ城)らが進駐。同15年8月、清水太郎左衛門が金山在城を命ぜられた。

・同18 年5月、豊臣秀吉、徳川家康の小田原攻撃のとき北陸支隊の前田利家、上杉景勝らが北条氏の金山城を攻撃した。

※今、復元中の金山城跡は北条氏時代に改修された後がよく残っている。


3.金山城の廃城
天正18年(1590)5月2日、豊臣秀吉の家臣 前田利家らが「金山城」を接収。同年8月1日、家康が江戸城に入城し、由良国繁は常陸国牛久に領地5400石(後、関ケ原の戦功で新恩1600 石を加増されて7000 石となる)を与えられて移住した。太田や金山は館林の榊原康政の領地となり、廃城となった。


※資料提供:新田義貞公顕彰会会長 前太田市文化財保護審議会会長 茂木 晃氏